バブル時代の六本木の夜
1980年代後半から1990年代初頭へ続く六本木の熱を、より回想的にたどる。
1980年代の六本木は、ただの遊び場ではなかった。 そこは東京が夜の顔を作り、 世界都市としての自信を最も派手に見せていた場所の一つだった。 バブル前夜からバブル期へ、六本木は夜の劇場になっていった。
1980年代の六本木を思い浮かべるとき、 まず見えてくるのはエネルギーの濃さだ。 六本木には、英語が飛び交い、外国人が多く、軍関係者も、商社マンも、 クリエイティブな仕事の人間も、派手に遊びたい人間も集まっていた。 それは新宿とも渋谷とも違う、もっと国際的で、 もっと「東京の表舞台」に近い夜だった。
だから六本木は単なる飲み屋街ではない。 東京が、自分は世界とつながっていると感じたがっていた時代に、 その感覚を夜の中で最も見せやすい地区だった。
1980年代の六本木は、
東京が夜を使って自分の国際性を演出していた場所だった。
1980年代前半から中盤にかけて、日本の都市は経済的にも文化的にも上昇感を強めていく。 その上昇感がもっともわかりやすく夜に現れた場所の一つが六本木だった。 まだ1990年代のような整理されたクラブ文化とは違う。 もっとディスコ的で、もっと見せることが前面に出た夜だった。
だがその「見せる夜」は重要だった。 後のクラブ文化のための土壌が、そこにすでにできていたからだ。 音楽に合わせて集まり、踊り、出会い、夜を自分の演出の場にする感覚は、 1980年代の六本木で大きく育っていた。
1980年代後半の六本木を語るうえで、 Maharaja の存在は象徴的だ。 それは単なる一軒の人気店というより、 バブルの時代の東京が何を華やかだと思っていたかを、 そのまま空間化したような場所だった。
派手な内装、行列、服装の意識、見られることの快楽。 Maharaja は、夜をショーにした。 そこでは音楽やダンスだけでなく、 その場にいること自体がステータスと演出になっていた。
六本木では、踊ることと見せることがほとんど同じ意味を持つ夜があった。
どこで遊ぶかは、そのまま自分がどんな東京に属しているかの表現でもあった。
後のクラブ文化に先立って、六本木はすでに夜の劇場を完成させていた。
六本木の1980年代を特別にしたのは、派手さだけではない。 そこには英語圏の空気があり、外国人が自然に混ざり、 東京の他の街よりも早く「外」とつながっている感触があった。
そのため六本木の夜は、日本の内側だけで完結していないように見えた。 音楽もファッションも、会話も、人間関係も、 東京が外へ向かって開きたい欲望を背負っていた。 六本木は、その欲望の受け皿だった。
1980年代の六本木は、まだ1990年代的なクラブ文化そのものではない。 しかし、そこには明らかに次の時代へつながるものがあった。 ディスコの見せ場と、クラブの音楽感覚が、 ちょうど重なり始める地点にいた。
だからこの時代の六本木は重要だ。 後に東京がハウスやテクノを本格的に受け止めるための身体感覚や、 夜の集まり方や、音に合わせて場を作る感覚は、 すでに1980年代の六本木で育っていたからだ。
1980年代の六本木は、
ディスコの派手さが、
クラブの未来へ少しずつ変わっていく途中だった。
1989年は昭和が終わり、平成が始まる年だった。 そして都市文化の空気としても、 1980年代の六本木が一つの完成を見せる年だったように思う。 夜はまだ明るく、自信に満ち、少し無邪気で、少し行き過ぎていた。
その後の1990年代には、クラブ文化はより音楽志向に、 より細分化され、より洗練されていく。 だがその前に、六本木は1980年代のうちに 「夜を都市の顔にする」という仕事をやり切っていた。
1980年代後半の六本木は、東京の夜の熱が最も見えやすい場所の一つだった。
1990年代のクラブ文化の身体感覚は、1980年代六本木の夜の中ですでに育っていた。
1980年代の六本木が大事なのは、 日本の夜が「ただ遅くまで遊ぶ場所」から 「都市のアイデンティティを演じる場所」へ変わった時代だからだ。
そこには、国際感覚、経済の高揚、見せる文化、 音楽と身体の結びつき、そして街そのもののブランドがあった。 六本木は、その全部を背負っていた。
1980年代の六本木は、単なるバブルの象徴ではない。 それは東京が夜の中で自分をどう見せたかったかの記録でもある。
clubs.co.jp では、この時代の六本木を ディスコの派手さ、国際性、見せる快楽、そして後のクラブ文化の前史として残したい。 そこには、まだ少し無邪気で、でも確実に大都市だった東京がある。